Top > Music+Dimensions > Liner Notes > B-minor Mass


The Habit of Perfection

John Eliot Gardiner

バッハのロ短調ミサ曲冒頭で三度刻まれる”Kyrie”の響き - それはあたかも舞台演劇のようで、聞き手であれ演じ手であれ、我々一人ひとりが個別的にあるいは集合的にそこに引き込まれる。この濃密で動的な4小節の提示により、我々はそこで自然に祈りの仕草を取る。ティッツィアーノやルーベンスの祭壇画に描かれたような姿だ。最初のロ短調和音の強拍とその苦悩の帰結から我々の期待が喚起され、この4小節が終わると荘厳で巨大なフーガが抑制的な祈りの感覚と共に始まる。あらゆる音楽の中でも、ミサ典礼文として規模、偉大さ、そして謹厳さにおいて空前の作品という、最も壮大な体験に我々は旅立ったのだ。

この記念碑的な冒頭小節に身を委ねると、それを先遣としてこのミサ全曲を聞き通す以外ないと感じ、かくも強烈な心動く展開感から、曲全体の発想と具体化は作曲者の頭の中では中断なく一気に進んだであろうと思われる。しかし現実はそうではなかったようで、バッハがこの壮大なミサ曲を作り上げる過程で何度かの中断があったことを我々は拾い出してしている。バッハがこの曲を完成させたのはその晩年2 年間で、ただしその曲想の種は40年ほど前に遡り、ワイマール公宮廷で過ごした探求時代であったと研究者の間では概ね見解は一致している。ミサ曲でCrucifixusの楽章の元になっているのはまさにその時期のもので、1714年作曲のカンタータ第12番「泣き、嘆き」冒頭の合唱がそれに当たる。バッハが大ミサ曲に引用したバッハ自身の曲としては最も古いものだ。

バッハがラテン語歌詞を意識するようになったのは彼の中期の時代だが、どうして彼がカトリック不変のラテン語歌詞による完全なミサ曲に着手するという考えに至ったのかは判っていない。18世紀のルター派作曲家がそれに取り組むというのは普通ではない。但しルターはギリシャ語やラテン語の原典を確固とした自国語版にして信者たちに残す一方で、信仰の完全な全世界的理解への配慮から礼拝の儀式においてMissa brevis(小ミサ)の継続使用は是認していた。従ってギリシャ語のKyrieとそれに続くラテン語のGloriaはルター派礼拝のスタイルでも新たなドイツ語典礼などとともに短いミサを構成するものとして生き残っていたのだ。バッハがこの小作品分野で初めて作曲を試みたのは1733年だった。49歳の生涯のこの時期、彼のライプツィッヒでの職務的状況は悪化していて、新市長となったヤコブ・ボルンはバッハにもっと真剣に教育の任務を果たすことを求めてきたが、評議会に「業務に努力の姿勢が見られない」と報告して、その地位から罷免することを試みた。いかに立場を改善するか、あるいはいっそすべてから脱出でもするか、そこで閃いた考えは3年ほど前にライプツィッヒの評議会に提示していた彼の「教会音楽整備のための簡潔にしてきわめて重要な起案」だった。その中で彼は音楽がどのように組織活用できるかまたすべきかについてドレスデン宮廷を配慮することを謳っており、これは批判的なものというより、単に音楽にそしてザクセンの関係者にライプツィッヒより高い価値を持たせようとしたものだった。そこでは魅力に満ちた才能ある音楽家たちが作曲家としてのバッハの専門的地位と野望を花咲かせることになる---と彼は考えたであろう。丁度その時、かつてバッハがオルガンリサイタルで絶賛を博したドレスデンのゾフィー教会でオルガニストの職に空きが生じた。バッハはこの絶好の機会に照準を定めたが、それは彼自身ではなく長男ヴィルヘルム・フリーデマンのためとした。バッハの熱心な(但し隠れ蓑としての)支援のもと、フリーデマンはこの地位を得て、ドレスデン宮廷楽団から暖かい称賛を受けることになった。こうしてバッハはドレスデンに旅する有効な言い訳を手中にする。到着早々彼は新しいザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に美しく仕上げられた新作のミサ・ブレヴィス(KyrieGloria構成)を添えて、宮廷内の地位として「気高き貴宮廷の賓位」を請願した。

バッハがこの献呈ミサ曲をそれ自体で十全な作品と考えていたのは至極当然で、彼がドレスデン・ミサ曲を我々にも馴染みある完全ミサ曲の冒頭2楽章として含み込ませようと思い至るまでにはまだ何年も経なければならない。我々がロ短調ミサ曲として見ている原曲はバラバラに作られたもので、その機能も目的も概ね曖昧だ。その形成と融合には長い年月を必要とし、おそらくバッハはそれを演奏によって体験するという恩恵など得ることはなかったし、自らの作曲技量を先々のために総括として実験する機会もなかったであろう。

Gloriaの全9楽章のほぼすべては原曲としてそれに先立つ作品があるとされ、そのいくつかは逸失している。従ってバッハが17336月ドレスデンに旅立つ時、彼の頭の中には既にどの曲が最適に応用できるかという新しい考えなど、「ミサ曲」の基本構想は出来ていたかも知れない。それでもそれらの曲を既存の典礼文構成の中に再適合させるには並外れた技量が必要で、その上で各パーツはコピー可能となりミサ曲が仕上がる訳だ。明らかに望ましい展開はこの短い2楽章ミサ曲を理想的には献呈対象の選帝侯臨席の下で演奏することだったであろう。それは礼拝としてはルター派のゾフィー教会でも、カトリックのホフ教会でも適切で、荘厳祭日には宮廷楽団が定期的に演奏を行っていた。バッハの楽譜には当時ドレスデンで流行し始めていたナポリ風のミサ作品との類似性があり、アリアのために1730年にイタリアから新たに招聘された独唱者とか楽団内の楽器演奏名手など、特別なアンサンブルを想定して作曲されたと思わせる大きな特徴を備えていた。さらにバッハはオーケストラの曲作りに宮廷楽団で彼が信頼し、起案でも特に賞賛していた演奏家の名人芸や様式の多彩さを発揮させる機会をふんだんに持たせていた。バッハがスターを散りばめ、ドレスデンの友人たち(ボヘミアの作曲家Jan Dismas Zelenka、ヴァイオリニストのJohann Georg Pisendel、そして彼自身の長男Friedemannなど)を集めて周到にリハーサルを重ねた初期版のロ短調ミサ曲を初演したと思い描くのは確かに惹かれる話ではあるが、それを証明する材料は何もない。

それ以後の12年間、我々はミサ曲と可能性としてのその発展についての足跡を見失う。バッハはそれを彼の記憶の奥底に仕舞い込んで、復活と再評価がもたらされるような新たな状況の変化を待つことにしたのだろうか?だとすれば、このミサ曲を完成させるに必要な創造へのエネルギーは恐らく1745年のクリスマス時期に見ることができよう。第2次ポーランド戦争がまさに終戦を迎えたところで、1745年秋にはプロイセン軍がライプツィッヒを占領し、周辺地域を荒廃させた。バッハは人生で初めて戦争の怖さや辛さを直接体験したのだ。3年後も彼は「ああ、悲しくも、プロシア侵入を受けた時」とそれを記憶している。クリスマスの日にドレスデンの平和を祝して感謝祭の特別な礼拝が大学の教会で行われ、それはバッハが統括するふたつのエリート教会合唱団のメンバーに合同演奏させられる珍しい機会だった。ライプツィッヒの人々に5声によるラテン語という異色のカンタータ第191番「Gloria in excelsis Deo」を聴かせる機会だ。そこでバッハはドレスデンのGloriaから3曲を急ぎ取り合わせ、新しい三連祭壇画に見立ててまとめた。1724年のクリスマスで初めてお披露目されたクリスマスの6Sanctusもほぼ間違いなくこの礼拝で復活したはずだ。こうして最終的に全27曲のロ短調ミサ曲のうち、5曲が初めて演奏されたのではなかろうか。彼は自分のラテン語作品の質に改めてハッとしたのだろうか?恐らく彼は突然そこに運命を感じたのではないか。もっと大掛かりな構成の中にそれを仕込んでいく可能性が、規模や壮大さにおいて彼の受難曲に比する明確な信仰宣言を創造しようという強い思いを彼に抱かせたのだ。

それからしばらく後、当初は1733年版ドレスデン・ミサ曲だった作品から「カトリックの大ミサ曲」を完成させるという記念碑的決断に至ったのは、多分2年は経過して、クリスマスの平和祝賀の直後だろう。1790年のCPEバッハの財産目録に出てくるのがその題名である。具体的な使用目的に沿って既存の音楽と新たに作曲した楽曲をまとめることは彼のふたつの志に対する妥協では全くない。ひとつは一曲の作業の中にも彼自身と先達の音楽で大切に思うあらゆる様式を包含した博学的探求を行うこと、そしてもうひとつはその作業実践を完璧に達成することだ。

彼の準備は周到だ。まず基本的な構成、兵站、スタイルについての考察がある。出発点に1733年版ミサ曲を選んだことは、方向がある程度それで固まったということで、5声のヴォーカル・スコアとフルサイズのオーケストラ(Sanctusでは三位一体のトランペット、オーボエ、高音弦楽に対して声楽部の二重三位一体で補強)、独唱及び合唱楽章のモザイク、そして片やイタリア風協奏曲的楽章があり、他方古典的ポリフォニーによる明解な対比という諸様式の融合がある。この数年前にスティル・アンティーコ技法について集中的に研究した時期があったことがパレストリーナとペルゴレージに誇りある地位を与え、彼がCredoを多声的に作ろうとする関心を膨らませるための出発点となり、また道案内としての役割も果たした。とりわけジョヴァンニ・バティスタ・バッサーニの6曲のミサ作品がバッハの興味を惹いた。

彼はそのすべてを書き写し、バッサーニの第5のミサ曲のCredoには16小節の始唱(BWV1081)を新たに作曲して加えているが、その低音オスティナート旋律は明らかに彼自身のCredoの始まりを予見させるものだ。

次の段階は宗教曲、世俗曲を問わず、彼の昔の作品を見直すことだ。バッハの記憶回路が如何に正確無比に既存の楽章から完璧な選択に至らしめたかは驚くばかりだ。音楽素材に潜むあらゆる可能性が彼の頭の中ではあたかもスクリーンに瞬間表示され、あとは選択プロセスでそれらすべての可能性を検分しているかのようだ。例えばバッハ最晩年の声楽曲で8行詩のアリア作品をわずか8語に切り詰める困難が彼にのしかかるわけだが、彼は昇天祭オラトリオ(BWV11)からノスタルジックなアルトのアリア「ああ、どうか留まってください」を勝者に選びそれがAgnus Deiになるわけだが、どちらの曲も遡れば失われた原曲がある。そしてGratiasの曲をミサ曲全体のまとめとなるDona nobis pacemに再利用することについては、バッハは聖餐式を1526年版ルターの「ドイツ・ミサ」から取られた「Wir danken dir」の感謝の言葉で締めくくるというライプツィッヒの伝統に関連づけているのだ。

ミサの典礼形式はラテン語なので、バッハは時を経て風雨に揉まれた言語を使って普遍的テーマに集中することができた。当時の他のミサ曲作品でのアプローチと比較すると、バッハの作品は人間ドラマに力点を置いた斬新なものとなっている。彼のミサ曲には全体に語り的な細糸が通っていて、鍵となる瞬間にはそれが表出する。例えばGloria in excelsisやキリストの地上での生涯を扱うニケア信条で中核をなす3楽章で天使が羊飼いの前に現れる場面だ。この3楽章(CrucifixusEt resurrexitとそれに先立つEt incarnates)は最新且つ最前衛の音楽として遙か先を行くもので、注目すべきはそれが最後になって追加され、恐らく完成形の音楽楽章としてはバッハが最後に作曲したものであることだ。その後に続く静寂はバッハ音楽の究極の神秘性を内包するもので、奇跡的に取り戻した幼年期の力のような、予感と失われた無垢の両方の感覚を孕むものだ。

しかしこのミサ曲全体の中で私にとって最も痛切に人間的な瞬間というのは、ConfiteorからEt expectoに繋がる霊的な橋渡しのパッセージだ。このゆっくりと引き延ばされ、手探りで不安定な小節に(自筆譜には何度も訂正がある)我々はバッハ自身の苦闘の跡を見ることが出来る。確かにそれは調性、対位旋律、和音などに対してであるが、信仰そのものにまで関わっている。自らの罪の恐れや堕落状態から我々を引き上げる救済の望みなど、そこでは様々なことが賭に出される。これはバッハの防御がうまく働かないという稀有な状況で、我々は彼のもろさと迷いとを密かに知る。
バッハが我々に提示している人間性の強調は、我々が日常的に暗黒や知らないものに抱く恐怖感に対し防波堤となる。彼が我々に恐怖を感じさせることが出来るのは、彼もまたそれを感じたからだろうし、さらにそれを克服する術も理解していたのだ。このミサ曲の中でふたつの真逆な状況を同じ歌詞によって提起したのは唯一Et expecto resurrectionemで、ひとつは歪んで不確かで、もうひとつは生き生きと確信に満ちている。

バッハが作曲とその消化の過程で、考えを集中させ、最終段階に入るには、何か特別な行事を必要としていたことは想像に難くない。ひとつの提案はドレスデンの新しいホフ教会落成に予定される祝典は彼の曲でミサを行うという可能性だ。基礎のすみ石は1739年に置かれ、ベルナルド・ベロットによる1748年のドレスデン景観図から判断するとホフ教会は完成間近で、鐘楼はまだ足場に囲まれていた。この行事はバッハが待望していたものだろうか?そうであれば、ミサ曲の最終章が乱雑で必死な手書きとなっているのが、それを裏付ける熱く切迫した証拠だ。しかしもし彼の意向が献呈祝いの一部として演奏されるための献上を考えていたのなら、これは違う。視力の低下で17503-4月にイギリスの眼科医ジョン・テイラー卿による2度の水晶体手術を受けたことに加え、バッハは治療しないままの糖尿病に苦しんでいたとの指摘がある訳だから。彼はしばらくの間持ち直していたが、720日に脳卒中で倒れ、8日後に亡くなってしまう。

だからと言って、例えば1751年ドレスデンでミサ曲の全曲演奏に立ち会うあるいは指揮するまでバッハが長生きしていたらという可能性を除外はできない。その時彼はまだ曲の手直しを加え、改訂を続けていただろう。つまり作品を静止した対象と見るなら、一個の人間の思考と行動についての総括とその器は、喩えそれがバッハのふたつの受難曲に匹敵するような絶対的信仰の宣言だとしても、一方向のものでしかない。もうひとつの見方はそれが切れ目のない自己修正と自己定義の行程で、それは終点に至ることはなく、あるいは決して至ることが出来ないのではないだろうか。音楽に込められた意味の本質的可動性が束縛から解かれ、救われるのは、演奏を通してのみだ。バッハは時間経過の中で音楽を組み立て、そこに自分の早い時期の音楽的着想を吸収させ、彼の「完璧という慣例」とでも呼ぶような表現によるまさに筆舌にし難い形の結論を出した。彼の口ぶりなら、「もうこの惑星からは降りる。自分の役目は終わりだ。君たちに純粋で美しいアイディアをひとつ残しておく。そのアイディアの表現法は私から世界への贈り物だ。私の先達たちもその一部に入っている。」と言ったことだろう。言い換えれば、Nunc dimittis(今こそ我を去らせ給え)のようなもの。我々は彼の末裔であり、彼の洞察力の受益者なのだ。我々がその曲を演奏する度に今の最新の地点での作品の持続的展開を印していくことになる。

さて30年の空白を経て、バッハの大ミサ曲を再録音するという機会に、私はバッハのあらゆる宗教曲の中でこの作品は演奏者への要求が技術的にも音楽的にも、さらに精神的にも最も高いものとの認識を一層強くしている。多くの音楽家たちと塹壕に(喩えだが)篭もっていたので、そこには2000年のカンタータ全曲巡礼に丸々一年私と共に没頭して参加してくれた者もいるし、それ以来毎年の再訪問もあって、彼らが如何に驚くべき才能を備えているか、私は判っている。そして彼らが歌手あるいは演奏者としてお互いに対し、またまとまって固く編み込まれたアンサンブルとしての演奏法に対し、図抜けた反応力を備えていることがバッハ音楽の解釈に磨きをかけてきた。教会カンタータの探訪を終えてミサ曲に戻ると、季節が特定され、週毎の説教に組み込まれた音楽は全体像に変化をもたらした。カンタータでは聖書が信徒の一人ひとりに関連するような寓話や物語を提供することでバッハに(受難曲だけでなく)音楽ドラマの材料を与えていたのだと常に感じていたのに対し、このミサ曲では我々は彼が新たな音楽の分野に挑むのを追走する。一方では聖書の教義を照らし詳説するために、他方では死を超えて生きていくことを最大に楽しく祝うことで人としての信仰の迷いや諍いを明らかにして克服するために。

バッハは社会の調和崩壊が進み、啓蒙主義者によって宗教の古い仕組みが壊されて行く時期に作曲をしていて、彼の見識の広さから宇宙を調和のある全体という概念で捉え、我々に提示している。彼のミサ曲の多様な由来を辿り、時代を遡る楽曲を再利用している兆候を見れば見るほど、そこにはバッハ自身の音楽が影響の束の中で薄まって、全体ではなくパーツの寄せ集めと化す危険性があるのだが、素材を加工してそれを新しい形に溶着させるところがまさに彼の真骨頂で、自らの意志と勇気は自分流で打ち鳴らし、そして様式を超えている、それがロ短調ミサ曲で特に感激を覚えるところだ。それを認識しないでは、その背後の原動力を見落とす恐れがある。バッハの決意は単に信仰を仕草で伝え、自ら発想した音楽を通して教義を解きほぐすためだけではなく、音楽の持つ可能性の幅そのものを広げ、そうした探求によって彼の生きる世界と何であれその先にあるものの意味を理解するためでもあるのだ。

©2015 John Eliot Gardiner

SDG722 ライナー・ノート

著書「Music in the Castle of Heaven13章より抜粋。
<
リストに戻る>

20170403