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バッハ巡礼

John Eliot Gardiner


■ 三位一体節後第14主日のカンタータ
の中では、疑う余地なく、選択すべきはコラール・カンタータBWV78 “Jesu, der du meine Seele”で、桁外れたレベルのインスピレーションがすべての楽章を通じて維持されている。

BWV78はト短調の巨大な合唱の嘆きで始まり、その音楽的帯状装飾はスケール、強烈さ、そして表現力において現存するふたつの受難曲の前奏曲と肩を並べるものだ。この曲は半音階に下降するオスティナートの上にパッサカリアとして仕上げられている。パッサカリアのような舞曲形式をして、 それは音楽の中で英雄的で悲劇的な響きを持つものであると、偉大な主唱者の名前を2人だけ挙げればPurcell(ディドの嘆き)とRameauの音楽によって我々は知っているが、多分バッハは知らなかったろう それを神学的/修辞的な目的に向けるというのはどこまでバッハに特徴的なのか。

我々は今年すでに二度、それに遭遇している。復活祭のための初期カンタータ”Christ lag in Todesbanden” BWV42週遅れの日曜日の”WeinenKlagenSorgenZagen” BWV12だ。ここでは、コラールが現れるたびにバスが歌う半音階的固執低音が一層強調される。オリジナルでありながら控え目な何十もの特徴の中の1つは、固執低音が1641年のJohann Ristの賛美歌に伝統的に繋がる定旋律に対して釣り合いを取る錘として作用するその手法で、あらゆる種類の対位法の線をそのまわりやその中に編み込んでいる。イエスが「悪魔の暗い洞穴から、そして弾圧的な苦悶から」キリスト教徒の魂を「最も強引に奪還した」方法を述べた部分に、力強く力点が置かれる。

3声部は定旋律に敬意ある伴奏をするものと単純に想定するところで、バッハは彼らに異質な重責を与える:パッサカリアとコラールの仲を取り持ち、説教の伝道者がしそうな方法でコラール・テキストを準備し、解釈する。これこそが聖書釈義の力であり、人はバッハがまたしてもその音楽的雄弁術の聡明さによって、伝道者の威光を(不注意に?)横取りしていたのではないかと疑ってみたくなる。

いずれにしても、それはあなたがあらゆる小節のあらゆる拍にしがみついて、音符の展開に応じて楽譜から音楽の価値の残らずすべてを掘り出そうと、ほとんど必死の集中した試みに取り組む、そんないくつかのカンタータの開始楽章の1つなのだ。


この高貴な冒頭のコーラスと、甘美にしてほとんど不遜に軽薄なソプラノとアルトのデュエットとの間の、ここまで唐突なコントラストを凌ぐものを人はどんな途方もない夢の中でも想定することができないだろう。そのオブリガート・チェロの常動曲(moto perpetuo)には、Purcellの反響 (歌劇《妖精の女王》から’Hark the echoing air’)Rossiniの前兆がある。「あなたの恵み深き笑顔で私たちを喜ばせて」と懇願するバッハの魔法に、あなたは同意せざるを得ず、肯くか −あるいは軽く足拍子− している。彼もこれ以上に微笑を誘引する音楽は書いていない!しかし執行猶予は束の間だ。


テノールの叙唱では、pianoで開始と異例の表記があり、我々は病んだ罪の概念に引き戻される。声の線はぎこちなく、表現は苦悩に満ちた戒めの言葉使いだ:ほとんど、この半年前に上演したヨハネ受難曲でのペテロの後悔の展開版である。その償いはキリストが血を流すことに依り、フルート・オブリガートのアリア(No.4)の中で、テノールは「地獄の軍勢が私を戦いへと呼んでも、イエスが私の側に立っておられるなら、私を勇気づけ、勝利できます」と信念の宣言を行う。地獄とのこの交戦を喚起するには、我々はトランペットまたは少なくとも完全な弦合奏団を期待するところだろうが、しかしここでのバッハは繊細な様式を選ぶ。彼の関心はむしろ人の罪を「癒やす」フルートの優美な装飾表現能力にあり、そこで親しみやすい踊るような曲を用いることによって、魂を清め、「心を再び軽快に感じさせる」ことができる描写方法を取ることだった。


最終のコラールの前に置かれた終盤のふたつの楽章はバスのためのものだ。まず、十字架の苦悩についての瞑想として始まるaccompagnatoがあり、それが発展して速度を変え、キリストがあがないの犠牲となり、その帰結として彼の意志への服従という思いとなる。

ヴィヴァーチェのところ(「酷い裁判官が断罪された人に呪いを浴びせる時」)では、バスはcon adore 情熱をもって 歌うように指示されている。この曲は大文字P=受難曲)と小文字p=情熱)の両方のPが付く「パッションの音楽」で、その技法・心情・表現においてヨハネ受難曲と、そしてカンタータ第159番での‘Es ist vollbracht’という独特の用語とも驚くほどの類似を示している。整頓された音楽学の尊重やテキスト本位という今日的な環境下でのバッハ演奏ではパッションはあまりお目にかからない用品と化しているが、それがないと、彼の匠としてのすべての技術、構造・和声・対位法に対する精通、そしてそれらをこれほどの激しさ、意味、そして正にパッションで満たすバッハの奇跡がガタついてしまう。


ハ短調の最後のアリアは、オーボエ協奏曲から引き出された楽章のような感じがするが、声部とオーボエを完全に一体化することに成功し、キリストのことばによって不安な良心に望みが生まれることを賛美する。トゥッティとソロが交互に入れ替わり、その不規則な小節構造(1-2½-1-2½-1)の周期パターンが積み上がってみれば決まり事の8になるというのが面白い!


カンタータへの結論としてのRistのコラール聖歌の一途な和声法には、バッハの技巧・心象・知的把握力の独特の組合せがあり、バッハは最初の楽章でそれを駆使していたのだと我々は倍増しで気付かされる。

©2006 John Eliot Gardiner

SDG124 ライナー・ノートより


■ 四旬節前第2主日のカンタータ

BWV181724213日、おそらくニコライ教会で説教の前に復活した。新作のBWV181はその直後に、BWV126は満1年に近い翌年24日に続いている。全3曲のカンタータの焦点は信仰の過程における(天国からの心の糧としての)言葉の圧倒的な力である。それはその日の福音書の主題(ルカ伝84-15)であり、最初の2作品においては種播き人の寓話を通して語られる。バッハ自身の基準に照らしても、彼はこの挑戦に非凡な集中力と発明の才で立ち向かっている。これらのカンタータの各々は、彼の鮮明な絵画的想像力、顕著な演劇的感覚、そして記憶に残る新鮮さと力の音楽によって特徴づけられる。

そうした素晴らしい例がBWV18 『雨や雪が天から降ると』で、恐らく1713年ヴァイマールで、バッハが宮廷オルガニストから新設のコンサートマスターの職に昇進する直前に作曲されたものだ。4本のビオラとバスーンを含む通奏低音のための楽譜からして、このカンタータはとてつもなく独創的で、尋常でない部分が多い。通常の5声のヴァイマール弦楽合奏をアルト/テノール・レジスターまで移調するというバッハの決定は、ある日ヴァイマールに2人の追加ビオラ奏者が偶然現れて自分を売り込んで仕事を強請ったようなことからではなく、(間違いなく、彼はいつものバイオリン奏者にこのカンタータのためだけにビオラ・セクションに加わるよう頼んだはずだ)、4つのビオラがもたらす魔法のように暗い色調の響きに基づくもので、それらが特に2つの中間楽章において、暖かい一番上の土壌の代役となり、肥沃でよく潤され、神の言葉が発芽し繁栄するかもしれない理想的な苗床を形成するものとみなすことが空想的に過ぎるとは私は思わない。バッハが1724年にライプツィッヒでこのカンタータを復活させに来た時、彼は2つの上部ビオラパートを2倍にするために一対のリコーダーでこの弦楽合奏を補い、そこに彼らはパイプオルガンにちょっとした4フィートストップのようなものを後光として加えた。これが我々の採用した版で、ト短調のヴァイマール コーアトーンからイ短調に移調している。(ビオラはA=465に調律しているが、オリジナルのト短調パートを譜読みした。)


冒頭のSinfoniaは主題と展開を予想させるそのあり方が本来の序曲であり、興味をそそる混成様式である−古風なシャコンヌが基本線としてまずユニゾンで演奏を始め、それから最新のイタリア風コンチェルト形式のリトルネロとなる形だ。オスティナート・バスの上は、2つの上声部(リコーダーがオクターブで重なる)がエレガントな網目模様を織り、突然の土砂降りかドカ雪のように渦を巻く。通訳者としてのあなたは、固執低音の構造的繰り返しを強調するのか、あるいは冒頭の4本ユニゾンのリトルネロ(例えば2本が雨、2本が雪で、その背後にはもっと象徴的に人類の墜落がある)の範囲内で絵画的イメージに整合するダイナミクスを明確化するのか、選択に直面する。


予言者イザヤの標題の言葉に向かって、バッハは初めて教会カンタータの中での「モダン」レチタティーヴォを作曲する。そこで当節のオペラ的叙唱でおなじみの唱えが彼には何の魅力も持たないことは即座に明らかとなる。とりわけ、彼が希求しているものは、威厳のある、非常に個人的スタイルでのテキストの明快な提示であり、アリオーソと往き来する中で急成長するものだ。だからバスのソリストはテキストの上昇下降イメージを忠実に再現し、また種についてその進化と成長に及ぼす天気の影響を聖なる言葉と対比するイザヤの手法を追っていく。


表面上は、後に続く楽章は連祷と解説の無害な融合のように見えるが、バッハはそれを彼のカンタータの目玉に変えてしまう。1枚の魅力的なタペストリーと考えれば、彼のカンタータの中でも類がなくて、それは伴奏(そこには例外的且つ活発に関与する器楽もある)を伴う叙唱4本で成り立ち、ふたつがテノール、ふたつがバスで、それに4つの短い祈りを織り交ぜている。これらは古風な3音符のフレーズで発せられ、それに答えてドイツ語訳序文として知られているルターの連祷からの反復句を合唱全体が引用して歌う。連祷の典型として、これらのパッセージは、トルコ人と教皇派の「冒涜と憤怒」に言及するところで突出する通奏低音を除けば、音楽的には一様だ(そこには聖職者の単調な吟唱に風刺的なふざけ心をひとつまみほど含んでいるのかな?)。一方、つながりのセクションは終わりまで平静で、妥当な場合にはテキストの感情変化を反映してアダージオからアレグロに(おそらく2倍速く)転換する。「腐った果物のように」という言葉や「人がお腹のことばかり心配する」様子を認めない人々への言及もある。種播き人、大食家、潜んでいる悪魔、さらにはワルのパントマイム、トルコ人に教皇派。それらすべてが田舎社会で働いているブリューゲル的な鮮明描写となっているのだろうか?


同じテキストのテレマン版があり、アイゼナハでの1710/11年カンタータ・サイクルのためにErdmann Neumeisterによって特別に彼のために書かれもので、ここでのすべてがふたつの魅力的な比較を構成している。バッハとテレマンはわずか50マイル隔てたところで生活しており、バッハのヴァイマール時代は定期的な接触があった可能性は高いが(テレマンはC.P.E.バッハの名付け親の立場)、カンタータ作曲家としてのバッハの進化にテレマンが様式上強い影響があったとする主張は立証するのがさらに難しい。テレマンのアイゼナハ・サイクルがチューリンガでかなりの話題だったということは疑いない。古いカンタータに根ざした合唱楽章とコラールに現代オペラ音楽の技法を接ぎ木する方法論の枠組みであり、しかもそれは1712/3年にはヴァイマールでも本当に演奏されたかも知れない。テレマンは当時の公爵エルンスト・アウグストに気に入られていて、バッハもそう伝え聞いていただろう。しかし、テレマンが新しい様式の扇動者であるならば、バッハはどの方向から見ても、まるで異なる規模の大きさと、音楽の重要性と関心を遙かに高めた点で、同時代の作曲家仲間を圧倒している。特にこの楽章は、論点として適例だ。一方にはテレマンがあり、短い呼吸で極端を避け、賛美歌詠唱と説教風の叙唱の区別をぼかす彼の最善の努力を尽くさせておく。他方バッハがここにいて、古い連祷と彼の新しい「現代風」叙唱スタイルとのコントラストを楽しむように、彼は2人の男性ソリストを指定して、複数の挑発と悪魔のような狡猾さに直面して信頼と決意に対する個人的願いを表明させ、そこでは berauben’(強盗)、‘Verfolgung’(迫害)、‘irregehen’(放蕩)などにこれまでより広い変調と夥しい装飾を施し、よりヴィルトゥオーゾ的なコロラトゥーラ表現を持たせている。


そうした雰囲気の一端は溢れ出て、唯一、簡潔なアリア(No.4)にも流れ込む。ソプラノが愛する人である神の言葉に言及するところでは、ユニゾンのビオラ4本(ここでもリコーダーがオクターブで重なる)が官能的でやや牧歌的な伴奏に入る。「すべて去りなさい」という強い上昇モチーフがあり、世と悪魔が仕掛けた誘惑と網を寄せ付けない。結論としては、バッハは一連の4声コラールのハーモニー作りが実際どんなものかその第1弾を我々に示してくれた訳で、それを我々はコラールの典型的帰結と見るのだが、今回はLazarus Spengler’Durch Adams Fall’という詩の第8節による。

©2009 John Eliot Gardiner

SDG153 ライナー・ノートより



■ 三位一体節後第1主日のカンタータ

1726年に作曲されたBWV39『飢えている人にはパンを割き与えなさい』はバッハの従兄Johann Ludwigが雇用されていたマイニンゲン宮廷からのテキストをバッハが使用した2度目の例と思われる。マイニンゲン手本とは、2つの聖書テキストの引用を伴うもので、冒頭楽章での「飢えている人にはパンを割き与えなさい」(イザヤ書587-8)は旧約聖書から、「慈悲と施しを忘れず」(ヘブライ書1316)は新約聖書から、貧しい者を助けよとの指令が共通項だ。

開始のコーラスは多くのセクションを跨ぐ218小節と、巨大だ。それは一対のリコーダーから一対のオーボエへ、そして弦楽器へと回し、戻される8分音符の繰り返しで始まる。それを引き継ぐのが叙情的な3度の十六分音符パッセージで、次いで合唱が加わり「家へと導きなさい」と歌う。合唱もペアで入って来て、懇願の仕草、感情で胸は溢れ、口にする願いは途切れ途切れでぎこちない。ここから半音階的フレーズの持続が始まり、続く叙情的16分音符のパッセージは縫うような動きのメリスマだ。新たにテナーが突出したA♭とD♭の凝縮されたフーガの主題に乗り出す。その独特の哀感はとりわけアルトの模倣が加わる8小節で顕著となる。93小節以降、拍子記号は普通拍子(4/4)に変わる:バスが単独で歌い始め、それにすべての声部と楽器がバッハのヴァイマールカンタータのいささか古風なスタイルで応える。それはあでやかな対主題で、裸の人への「衣」を示唆している。106小節で3/8拍子(これもヴァイマール的特徴)に変わり、コーダの合間で分割された2つのフーガ提示の1番目をテナーが口火を切る。冒頭部分の情感を押し殺した後の安堵感は明白で、「あなたの癒やしが急速に進み」によりホモフォニーで燃えるような結論に達する。それからバスが第2のフーガ展開「主の栄光があなたのもとに」を扇動する。深い情感を経て後に、ソプラノに先導された最終的なコーダが喜びを爆発させる中で閉じ込められたエネルギーを解放する。

このカンタータには他にも美しい曲がある:鼓動と組合せの基本単位が2ではなく3にあると思われるバスのalla breve continuoのアリア(No.4)、2本のリコーダーがユニゾンで伴奏する甘美なソプラノのアリア(No.5)、感動的なアルトのaccompagnatoNo.6)だ。しかし、テキストのフレーズひとつひとつが最上級の音楽へと変容していく冒頭の合唱による無限の大きさ、活気、柔軟性そして想像力の前ではどれも小さく見えてしまう。

©2005 John Eliot Gardiner

SDG101 ライナー・ノートより



■ 三位一体節後第16主日のカンタータ

Trinity 16のための4曲のカンタータは、Nainの息子の未亡人を元気づける福音物語からインスピレーションを得ている。BWV16127895の全4曲は、ルーテル派の死に対する切望を明確に表現し、葬式のベル『Leichenglocken』を鳴らすことを唯一の特徴とする。全曲のテーマは統一されたものだとしても、曲のテクスチャ、構造、情感には測りきれない多様性があり、全体が心を満たし深く感動的な音楽カルテットを構成しており、それらは癒やしと希望の賜物だ。

バッハのヴァイマール時代のあの驚異のカンタータ、『来たれ、汝甘き死の時よ』BWV161をバッハの命日(728日)にIona Abbey(スコットランドの島)で上演した僅か2ヵ月半後に(改めてコンポステーラで)復活できたことは喜びに堪えない。島ではその風景にまさに完全に溶け込んだので疑うことなく最も強く印象に残ったのは牧歌的肌合いだったが、それに対してここコンポステーラでは引き込まれるほど美しいテノールのアリア”Mein Verlangen” No.3)だった。その官能的な弦の肌合いがマーク・パドモアの歌唱と相まって極めて感動的だった。

3拍子の2つの楽章(No.35)で、BWV161はバッハの後のカンタータのために死の訪れを扱う規範の設定を試みているかのようだ。これは、悲嘆する心をなだめ、和らげるための周到な仕掛けだったのだろうか?それともそれは全く偶然なのか?

@Santo Domingo de Bonaval, Santiago de Compostela

©2005 John Eliot Gardiner

SDG104 ライナー・ノートより



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20170403