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バッハによる最初のライプツィヒ受難曲

John Eliot Gardiner

それほど遠くない昔だが、バッハの教会音楽についての一般認識というと4大作品のロ短調ミサ曲、クリスマス・オラトリオと現存するふたつの受難曲に限定されていた時代があった。これらのうち、ヨハネ受難曲は低く見られがちな対象で、聖像視されたマタイ受難曲に比べると練り上げの緻密さが劣り、雑な作品と考えられていた。バッハが物事をそんな風に見ていたかどうかは全く疑わしい。1723年5月に開始したライプツィヒ・カンタータ第1サイクルの時から、バッハは教会暦のすべての催しのために毎週新しい音楽を作曲するという壮大な任務を自らに課し、当初の目標は最低でも2年間のサイクルを全うし、それぞれの年の頂点に受難曲を設定していたのだ。1724年の聖金曜日のために書かれたヨハネ受難曲は彼がそれまでに紡いだカンタータというネックレスの中で中心に位置すべき作品だったのである。


西暦2000年にバッハの現存する教会カンタータ全作品の演奏と録音を続ける中で、我々はライプツィヒでの最初の2年間のバッハのとどまることなく溢れる創造性を目撃することとなったが、教会の各祝祭日の神学上のテーマを反映し、その輪郭を投影する巧妙で機知に富んだ方法を彼は編み出して、さらに週から週への連続性を提供すべくそれらを2つ、3つ、4つにつなぎ合わせていたのだ。1724年の四旬節前の期間にカンタータのテキスト選びやどのコラールで行くか決めるに当たって、バッハは初の受難曲の上演においても聖金曜日を満足させるコラールで、聴衆にとって示唆に富む叙述となるよう、いかに細心の注意を払っていたかを我々は学んだ。これらカンタータに親しんだことは、我々が2004年にこの受難曲に再度取り組んだ時、作品の解釈を修正し、豊かにすることにも役立った。そうしたことどもすべてが指摘したのは、ヨハネ受難曲をバッハ個人の究極の表明として見るということだった。そのためバッハはそれまでの1年間にカンタータの中で合唱、コラール、レチタティーヴォ、アリアの組合せや配列を様々な方法で試し、体系的に生み出してきた多くのテーマや技法を結晶化させようと模索していたのだ。


ライプツィヒでの初年度、受難曲に向かう糸口としてバッハは市の雇用主や聴衆に対して自らを「音(楽)による説教」の作り手であると断固たる口調で高らかに宣言した。聖金曜日の晩祷における礼拝の部分を最小限に縮めて、彼の音楽が初めて舞台中央を支配し、(テレマンが彼自身のカンタータ・サイクルについて用いた言葉を使うなら)「調和して響く神聖な礼拝の一部をなし」得ることになる訳だ。バッハは20年の間こうした機会を、信仰を確認し強いものにするために現代音楽 彼の音楽 に何ができるかを巨大なキャンバス上に描くことを、ずっと待っていたのだ。それはバッハにとってこれまでにない、演奏が100分にも及ぶ40楽章構成の大規模な仕事で、礼拝上のニーズや指定を遙かに超えていたので、「明らかにやり過ぎていた」とのジョン・バットの見解には納得できる。

ヨハネ受難曲の背景を確認するため、ここでは手始めに当時のザクセン全域での受難節期間に礼拝参列者が享受できた音楽演目の多様性について鳥瞰図を見ることから始めてみたい。例えば1717年の聖金曜日にライプツィヒでは、ある受難オラトリオ(作者、作曲者不詳)が初めてノイキルヒェ教会の朝礼拝で演じられていた。さらに進んで聖トーマス教会では、ルターの音楽アドバイザーだったヨハン・ヴァイターの作品と伝えられるヨハネ受難曲を由緒正しく聖トーマス合唱団がもっぱら単線律の設定で厳かに演じていた。他方、数マイル西のゴータの城教会では、病床の在住宮廷音楽家の代理として、バッハ自身が任地のヴァイマールから旅行して最新の受難曲作品上演を行っている。1717年ということは、バッハは他人の作品を演奏したのだろうか?それとも自分の作品、例えば消失したマルコ受難曲の初期の版とか?その楽譜もテキストも発見に至ってはいないものの、その後数年間の受難曲上演を見れば、少数の厳選された聴衆を集めたザクセン=ゴータ公爵宮廷さらには全ドイツの同様の宮廷で流行っていた趣味について手掛かりを得ることはできる。1719年にはクリスチャン・ハインリヒ・フーノルトの脚本からラインハルト・カイゼルトの作曲による受難黙想がゴータで上演され、1725年には新任カペルマイスターのゴットフリート・ハインリヒ・シュトルツェルが彼自身のブロッケス受難曲の上演をしているが、それはヨハネ受難曲の翌年のことだ。フーノルトやブロッケスの言語は好色なあけすけさ、そしてどぎつさと甘ったるさが交互に目立つものだが、それは明らかに公爵宮廷やハンブルクのようなコスモポリタン都市で流行していた礼拝に関わらない信仰文学と呼応するものだった。バッハは1717年のゴータ受難曲では(作品が実際にあったとしての想定だが)こうした路線のどこまで関わっていたのか論評することは難しいが、研究者の中にはそこでの楽章の一部は1725年のヨハネ受難曲第2版で再利用されたと考えるものもいる。


18世紀初頭には音楽による受難節黙想への嗜好が様々な形態で明らかに高まり、当然そうした需要に作曲家が応える新たな機会も増えた。それはちょうど前世紀の宗派分裂でその両サイドから画家たち(その時代の主要な人物は当然ながらルーベンスとレンブラント)が求められていたのと同じだ。聖職者たちの側は、これらの革新は慎重に歓迎されるべきもので、それは「信仰とは・・・常に更新され、活性化され、言うなれば、煽らなければならないもので、そうしないとその結末は惰眠となるだろう」からであった。シュトルツェルよるブロッケス受難曲のお披露目に際しては、ゴータの宮廷牧師が「この物語は極めて入念に展開されるので、参列者の眼前にキリストが現れ、その中で再び磔刑にされるかのようだ」と記述している。それこそがまさにポイントで、新たな音楽が今やテキストに付加できるようになり、そこでは受難の物語が視覚的もしくは極彩色の言語表現により語り直され、そこには時折怒りや抗議の爆発 その場にいた同時代人による一種の野次 も語りの一部として組み込まれていた。


従ってバッハ初演の噴火に必要な要素はすべて172447日には用意されていたということだ。ライプツィヒの忠実な信者たちは、ルター派暦で最重要の礼拝を心に刻むには何が音楽表現としてふさわしいか考える際に特別な思い入れがあって、彼らの根強い懐疑主義がバッハの冒険心溢れる音楽的且つ宗教的思考を受け入れるような心の準備を妨げたのかも知れない。後に彼自身が市当局に告白しているが、彼の音楽は当時演奏されていた他のどんな音楽よりも「比べものがないくらい難しく、さらに複雑で」、その結果より質の高い音楽家をしかも数多く必要とした。1732年の書類が残っており、そこから当局者がどんな反応だったかの手掛かりを得ることができる。敬虔主義牧師のクリスチャン・ゲルバーによる記述はこうだ。


『50年以上前、棕櫚の日曜日の教会では、オルガンは音を出さないのがしきたりだった。その日は聖週間の始まりなので音楽もなかった。ところが徐々に受難物語が、それは以前は簡潔でシンプルな讃美歌として謙虚且つ敬虔に歌われていたのだが、多くの種類の楽器と共に手の込んだ様式で歌われるようになり、時には教区全体が集まって歌う受難コラールのちょっとした上演と組み合わせることもあった。それからまた器楽の規模は小さくなった。この受難音楽が大きな町で初めて演じられた時には、バイオリン12提に多数のオーボエ、バスーンその他の楽器が使われ、多くの聴衆はそれに驚き、どう理解して良いのか判らなかった。教会の貴族専用の家族席には多くの大臣や貴婦人たちがいて、彼らの本から作られた初の受難コラールを深い信仰とともに歌った。しかしこの劇場音楽が始まると、これらの人々は当惑の極致に追い込まれ、お互いを見合って「これから何が起こるんだろう?」と言った。』


これがライプツィヒのバッハに関してかどうかは定かではない(一部の学者たちは多分ドレスデンが最も有力と考えた)が、クリスチャン・ゲルバーの記述は論評の全スペクトルの一端を明らかにするものだ。残念ながらバッハの受難曲上演がどう受け止められたかの直接的証言はない。ライプツィヒの社交的・宗教的カレンダーにおける聖金曜日祝典の重要性や視覚的音楽の斬新さ(市の神父たちの承諾と公認は僅かここ3年間)をしても、これが論争を呼んだことは明らかだと思う。でなければどうあり得ただろうか?バッハの先達たちはもちろん、同時代人ですら、誰もここまでの規模で聖書解釈的な音楽への熱意を示した者はいない。その機会にバッハはルター派評議会の綿密なレーダー検査下に彼の受難曲テキストをすべり込ませたのかも知れないが、彼がその上演をニコライ教会の順番なのにトーマス教会で行うと発表して自らが事態を掌握したことにより、不注意にも評議員と聖職者を両方とも警戒させることになったのかも知れない。単に印刷された台本を読むだけで、バッハの音楽を1曲聞いてみるより前に彼らを敵に回すには充分だったろう。それはまさにその後の15年間に及ぶヨハネ受難曲を取り巻くさらに熱を帯びた、しかも殆どが文書化されていない論争の前兆だった。そのことがバッハに曲を4度以上も改訂させた原因で、そのうち2度は聖職者の圧力に屈して作品のトーンや教義上の見地を変更し、音楽的にも大きな修正をした。そして1度1739年には、この件をそれから10年間全く放置し、その後最後の1、2回のところで復活ののろしを上げて果敢にオリジナルの状態に回復している。恐らくこれは彼が求めていた回帰であり、それは単にこれを始めた時に費やされた尋常でない芸術上の努力についてだけでなく、彼の主要作品の中でも最も複雑な設計の構想や具体化に注ぎ込んだ膨大な量の思考についてもだった。


バッハの最も基本的な(しかも多分、論議を呼ぶ)最初の決断のひとつというのは、キリストの人物像に特別な脚光を与えたことで、それはヨハネ受難曲では後のマタイ受難曲より遙かに大きな部分を占めている。福音書全般から我々が得ているキリストのイメージはその慈愛の心が繰り返し強調されるのに対し、こちらの版では自らの運命を予見しつつそれに抗わず、自分の審判の変遷にも動揺のない様子でひたすら己の務めに集中する「救世主の勝利」(Christus victor)という威厳ある姿に描かれている。キリストの権威をヨハネ受難曲での力点として選んだ上で、バッハはさらに慈愛についての含み込みの模索を続け、屈辱を経由したイエスの栄光賛美という路線を取る。このアプローチは、神学者が償いという初期ギリシャの神父たちの視点に遡上したように、全く由緒正しい選択だ。さらにそれはルター自身からも保証されたもので、「ヨハネ伝には独特の愛らしさがあり、誠に筆頭の福音書、他の3冊より抜きん出ており、選ばれるべきもの」とルターは主張している。そこに人は「キリストへの信仰が如何にして罪、死、地獄に打ち勝ち、生と正義と救済が与えられるかの見事な顛末」を見出すのだ。


ではそれがどうして1724年のライプツィヒでは殊更論争を呼ぶアプローチだったのだろう?ライプツィヒの聖職者はバッハのヨハネ受難曲の神学的意味については何であれ疑念を持つべきだったというのは、神学的に希薄なニュアンスの我々の視点では理解に苦しむところだ。そこで、彼の崇高な終盤の合唱“Ruht wohl, ihr heiligen Gebeine”と最終コラールを追尾するという彼の決断を受け入れてみる。演奏では、コラールが我々を今の現実に引き戻し、最後の嘆きと不安の名残を払拭するのに役立っていることは明らかだ。墓の安息に焦点を当てるコラールの前半は適切に控えめだが、「最後審判の日」、つまり肉体の復活と来たる世界での命が語られるや、バッハはテンションを巻き上げる。4声間の空間が大きく広がり始め、バッハらしく最大級の厳めしい進行が現れる。続く7つのカデンツ中6つは「完璧」に長調で、音楽をそびえるような力で満たす。唯一の例外は“Erhöre mich … erhöre mich”(聞いてください聞いてください)と繰り返す願いのために取って置きの短調だ。復活祭はまだ2日後だが、ここでの主張は積極的且つ断定的で、それこそがライプツィヒの聖職者たちの目から見れば、バッハの最も重大なエラーだったのかも知れない。「復活」もしくは「最後審判の日」というのは伝統的な聖金曜日の祝賀行事のもっぱら陰鬱なムードとは相反すると想定されていたのだ。

我々にとってヨハネ受難曲は、バッハと同時代の聴衆にはもしやそうではなかったのか、芸術作品であると同時にそれ自体が祈りの行為として考えられていたことは明らかで、それは過去千年の偉大な西洋絵画や音楽と多分に同じ受け止め方だ。それが滲ませる並外れた真摯さや決意の感覚をそれ以外にどう我々は説明できるだろう?ヨハネによる受難物語の目撃伝から霊感を得てそこから思考されたバッハの精彩にして迫真のビジョン、その絶対的信念は冒頭から明白だ。合唱プロローグの“Herr, unser Herrscher”の前では全員お手上げだ。驚くほど多彩で個性豊かな開始楽章が並ぶそれまでの教会カンタータの観点から考察しても、この大絵画は規模と効果(Affekt)のどちらでも比類ない。後の2作品、マタイ受難曲とロ短調ミサ曲のプロローグとの共通点として、ヨハネ受難曲の開始数小節の中には作品全体の種が埋められている。指揮者としては、それに続く叙述的あるいは黙想的楽章すべての展開は冒頭のダウンビート上に予告されていると感じる。指揮者がそこにくだす方法によって、楽章のペース(はかどり)以上に遙かに大きなことが決まっていく。例えば、作品全体のトーンとかムードとか、そして聴衆を演奏から動的参加に引き込み、バッハが意図した意味づけ以上にその付託条件を広げるまでの成功があるなら、そのレベルにも影響を及ぼすものだ。


礼拝年度で最も重要なこの日のために、バッハはひとつの構造を、出来事の進行と黙想との微妙なバランスをこれまで他のどの作曲家もあえてして来なかったような取り方で導き出している。彼のめざすところは鮮明で劇的な再現と情景設定を並列に並べ、その意味を聴衆に説得力のある提示で引き伸ばしていくところにあったようだ。このためバッハは福音史家、イエス、その他の登場人物と群衆の3方向での発声交換を確立させる。バッハはこのパターンを崩してペースを落とす正しい瞬間を本能的感覚で示し、そこにソロ・アリアを挿入して、物語の展開に個人的関係性を付与するのだ。彼のスキームには健全な神学的先例があり、ルター派が説いていた方法はまず聖書を読み、次にその意味について黙想し、そして最後に祈るというその順序だ。ヨハネでは慰め(Trost)と喜び(Freude)とがイエスの死を超えた勝利によって得られたものであるとはっきり示している。バッハの構想はこの苦労して手にした勝利の経緯を、ヨハネが見たキリストの情熱を語り直すことで描こうというもので、ひたすら忠実にヨハネの言葉に沿い、ブロッケスその他の版のような言い替えはせず、さらに最初に叙述に力点を置くためアリオーソやアリアによって宗教的な言辞があり、その後にはコラールという形で一度足を止めて全体を黙想させようというものだ。ここで聴衆は子供の頃から親しんで来たメロディと歌詞という快感とともに自分たちの反応を集合的に声を出し(あるいは出される声を聞いて)、それは信者が神に話しかける最も直接的な形式だ。


部外の聴衆としてであれ部内の演奏者としてであれ、ヨハネ受難曲を経験したことのある人なら誰もが知っているように、その体験全体の中心にはコラールが置かれていて、響きがシンメトリーで堅牢に作られたバッハの和声は驚くほど輝かしいものだ。そのハーモニーの豊かさを低3声の見事な形態と分離しようとするのは無駄なことで、各声部にはれっきとした独自の旋律がある。 その垂直面、水平面の交差は経験した者にとっては命綱(古い感覚の言葉だが)なのだ。各自の宗教的見解がどうであれ、コラールは行動を現実の今に引き込み、その重要性を考えさせずにはいない。叙述で次々と行動が取り沙汰された後、コラールは群衆の飽くことない介入に対する歓迎の反応を際立たせる正気の小島群なのだ。そうした暴発の野蛮さや全くの卑劣さには、特にそれがユダヤ人やローマ人に限らず、我々全体に反映するので、背筋が寒くなる。ルターの考えでは、そして恐らくバッハも、我々はすべて罪なく且つ罪深い(simuliustus et peccator)が故に暴徒の狂乱や非情な残虐に不可避的に関与されられるのである。


神学者はキリストのこの「下界」での存在を振り子のような曲線で記すヨハネの方法に注目していた。最初に人の姿を得た時は下方に振れ、十字架の磔刑で天底にまで落ち、それ自体の振れが上昇を始める昇天となり、「天上」の世界に戻る。バッハはこの振り子の運動を音で受難曲の設計図になぞることに苦労していたが、その補完にも腐心した(曲線軌道の全体把握はまず不可避となるが、変調のすべてを記録できなければならない訳ではない)。受難曲の中間でバッハは最も長いアリア‘Erwage, wie sein blutgefarbter rucken’ (No.20)を配したが、それは大洪水の後に神とノアが交わした古い契りの印である虹を呼び起こすものだ。バッハそこでキリストの地上での存在という振り子の曲線とは鏡映しに、対称的な彼自身の天弧を描き込んでいる。調性というのは、自由に回る24のキーによる仕組みと見れば、まだその起源はとても新しく、バッハの百科事典的測量とも言うべき「平均律クラフィア」(1722)で結晶化したものだ。それはバッハにとっては受難曲の形や輪郭を組むための最新の手段で、彼はそれをコントラストの目的に使った。ストーリーの語りの部分を増幅させ、ひとつひとつ焦点をさらに鋭くし、音のつなぎ目での調性変化の度合いを変えたのだ。それはある時はより素早い調性の切替によって、息継ぐ間もないくらい殆どリアルタイムのようにアクションを加速させ、中核の裁判シーンでの緊迫感を高めるのに貢献できた。別の面では、それはイエスの十字架、死、埋葬を語るところでは、スローダウンしてヨハネの福音書での簡略な記述をあたかも埋め合わせようとしているかのようだ。


エリック・シャフェ(*米国の音楽学者)は9種類に分化した調性領域を特定し、シャープ系は中心部、フラット系は周辺部と、音調によって作品での「ねらい」を分類した。バッハはヨハネの教義の中で基本的な反対論の部分を強調するためにそれを使ったとシャフィは論じており、例えばイエスの苦悩はフラットの調性を伴うが、それらの人類への恩恵になるとシャープの調性で明示される。「物理的出来事の叙述については下降気味で、イエスの死に向かうが・・・最終的方向性は上昇であり、磔刑が昇天であるとのヨハネの認識を示唆している」と。従って「合唱『ナザレのイエス』での主要な寓話は、疑う余地なく兆候から真実を見抜く信仰の力である」と論じる。もしシャフィが正しければ、これほどまでに巧妙ですべてを包括するコードとシンボルによる戦略は宗教的動機の徹底した探究心によってのみ生まれ得たものと我々は結論付けねばならないのではないか。


聖書に基づき触発されたバッハのこの作品の出発点は、マタイ受難曲以上にそうなのだが、福音書自体の内在的テーマ、アンチテーゼ、そしてシンボルとの直接的往き来にある。シンボルは音楽が演奏されるたびに生き生きと飛び出してきて、我々が苦悩する痛みや怒り、受難の物語の矛盾や当惑を理解する手助けとなる。バッハはヨハネが語る本質的人間性に完全連結し、それをカラヴァッジョやレンブラント的な共感できるリアリズムで表面化させる。そうした重鎮たちの筆致に相当するのが、バッハの高度に発達したドラマ感覚とシーンそれぞれに対する適正な規模と「トーン」についての的を外さない感触だ。二人の画家が共に暗闇を軸足として重要視したように、ただしその逆方向の光にバッハの音楽は満ちていて、それは彼の基準からさえも超越性の中では例外的だ。


ヨハネ受難曲のように複雑な作品での正式な演出について、我々の技量の度合いを把握しようというのは独特の困難さがある。あらゆる前後関係の断片的な知識を我々がひとつにまとめ得たとしても、その最初の上演時に音楽に対する我々の反応を鋭敏にする手助けになるとしても、聴衆に体験を再現することはない(できない)だろう。元々の場は失われて回収不能だ。しかしこの作品を演奏し、新たに聴かれるたびに、我々はそれを自らのものにする。それを我々の時間の中に停泊させ、そうしつつも時間を超越したバッハの豊潤な土壌につながる。バッハは自分の作曲面での匠を支える技術的作業には一度も注意を払うこともなく、順繰りに感情を奮い起こし、刺激的で、歓喜させ、そして根底から感動的な音楽を、最初から最後まで我々の注意を引き続ける音楽を、我々に残してくれた。バッハがここで見出したのは「キリストの受難は言葉や形式ではなく、命と真実で会うべきもの」というルターの指令に対する彼自身が勝ち得た正当性の立証である。



©2011 John Eliot Gardiner

SDG712 ライナー・ノート「Bach’s first Leipzig Passion」より。


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    20190130