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バッハの偉大な受難曲

John Eliot Gardiner

バッハのマタイ受難曲の自筆楽譜は書道としての奇蹟だ。並外れた優美さと流れるような表記は40代の彼に際立ったもので、視力が悪化した晩年の読みづらい硬直した手書きに細い紙片に修正を注意深く添えているのとは対照的だ。それは丹精に構築された自筆スコアで、作業を繰り返し、改訂し、修正し、何らかの理想を求める状態にして残されたという印象だ。しかしこの1730年代中頃の状態の良い楽譜一冊と、さらに演奏用パート譜一式だけでは、その後の何世代ものバッハ学者には、受難曲の生い立ち、その構想もしくは改編の流れについて何ら確信のある追跡はできない。その結果、我々はバッハの指揮で行われたどんな演奏に誰が参加したのかもはっきり解らないでいる。トーマス教会の西側合唱席でそれをどのように配置させたのかについても同様だ。そして当時の反応についても、人々がどう思ったかの証言のわずかな断片さえ何もないのだ。

証拠はないが、しっかりした可能性として、マタイ受難曲はバッハがライプツィッヒでの第2次年度、つまり1724-5年、のカンタータ・ツィクルスの一部として計画したもので、そこでは選ばれた各カンタータのコラールを基盤あるいは中心として力点を置くというものだった。受難曲は盾の中心突起みたいなもので、ツィクルスの中心となるよう構想されたのかも知れない。しかしそうはならず、その初演はさらに2年遅れ、バッハは1730-40年代にも改訂を続けていた。

ヨハネ受難曲のふたつの大きく異なる版が1724年から25年にかけて駆け足で世に出た後、その作品を取り巻いた厳しい世評もあって、バッハはマタイ受難曲では福音書の物語の場面と場面の間に聴衆が反応し考える時間的余裕を与えられる何らかの仕掛けを作ろうと考えていたようだ。彼は論戦が行き交う部分を少なくし、部分的にはマタイ流の口述にして、聴衆がよりドラマの進行に添える余裕を与えるようにした。バッハは手始めに台本作家のピカンダーと共謀(あるいは指示)して、ほとんどのアリアの前には中間段となるアリオーソを置くことにし、聴衆に黙考するスペースを用意することでそれをアリアに占有させたかのようである。そうすることで各アリアの素晴らしい美しさ、オブリガート伴奏のほのかな彩り、そしてアリアに反応する感情や想いの膨らみを順次賞味する十分な時間が持てることになる。アリアが終わって物語が再開するのをイライラしながら待つのではなく、ドラマの進行に沿って男声・女声一人ひとりが発する声、痛悔を語る民全体のコラールによって、我々は悔恨、侮辱、嘆きの発露などを駆り立てる声の力を理解し始める。式の始まりと終わりを司る数少ない祈りと賛美歌だけに切り詰めた聖金曜日晩課の礼拝と、そして説教というその相当な長さ全体に対して、その中盤に来たところで、「音符は聖句に息吹を与える」と音楽を重要な要件としたルターを正当化できるかどうか、バッハにとってはここが究極の試練の場であった。

バッハと音楽家たちには教会の視点は部分的でしかなかっただろうが、バッハの音楽は本質的にドラマ的で、聴衆の感覚に訴え、時には攻撃さえするよう意図された音楽だった。トーマス教会カントールの職を得た最初から、彼は過度に劇場的にならない音楽を作曲するよう警告を受けていたが、受難の物語を聴衆の胸の中で再現し、当時の人々にその正しさを確約し、彼らの悩みや恐れに思いやり、受難の説話の中に慰めと啓示を見出すよう彼らを導くという彼の目的は非難できないものだった。バッハは中心線の均衡を保って、マタイ伝の受難物語を反射的な反応と傍観者の計算された対応を添えて伝え直し、それを現代に引き寄せた。計り知れない苦闘、挑戦、背信、寛容、そして愛と犠牲と同情と哀れみを伴う人間ドラマの本質として、これをさらに良いものにすることは困難だろう。

キリストを寓意的な花婿とする伝統的解釈とキリストの実体を生贄の羊とする解釈とを合体させようと考えたのがバッハなのかピカンダーなのかは分からない。分かっていることは、バッハの出発点がセリフについてのコンセプトで、それを彼は台本作家と最初から議論し合意していたに違いなく、ヨハネ受難曲のふたつの楽章で既に試して収穫を得ていたことであり、その上で今回は論理的帰結として合唱を2グループに分け、それぞれを個別の器楽アンサンブルがサポートするという分離構造に発展させた。

バッハによる冒頭の合唱は我々に途方もない劇的場面を提示している。言わばヴェロネーゼかティントレットの偉大な祭壇絵画のことば版だ。第1合唱がイエスを「花婿」と言い、続いて「子羊」があり、そこでバッハは唐突に音幅の広い第3の合唱にコラール「おお、無垢な神の子羊よ」を歌わせ、それは高声部グループ(リピエーノのソプラノ)によるユニゾンで、当時のトーマス教会の礼拝空間の東側全体に伸びていた身廊(残念ながら、今はもうない)の中の「ツバメの巣」と呼ばれるオルガン・ロフトから歌われた。ドイツ語韻律による時間を超えた祈り(それは以前から聖金曜日には朝の礼拝の締めくくりとして行われていたのかも知れない)を、力強くしかも心揺さぶる嘆きに重ねることで、バッハはキリストの切迫した裁判と受難の場である歴史的なエルサレムと、黙示録によれば神聖な町の支配者が神の子羊であることとを対比させ得たのだ。ここは無垢な神の子羊でありまたイエスがその罪を贖う迷える人間たちの世界という本質的な二分両断で、それこそが受難曲全体の底流であり、一方の運命が他方の運命のくびきなのだ。

そして聖書の物語が始まる。のっけから我々にはテクスチャと響きの強く新しい並走が迫り、語り手の大きく弓なりなセッコ・レチタティーヴォ、4声の弦楽がイエスの言葉ひとつひとつを包む「輪光」、群衆による緊迫した交誦への介入、1部合唱に抑えた信者たちと全員に戻るコラールなど、それらはバッハにとって直近の観衆が聴き慣れている賛美歌によって彼らが前曲での歌い手の感情表現に反応する手立てを提供している。やがて我々はレチタティーヴォの聖書口述、アリオーソの説明、アリアとコラールによる祈りという三つ葉パターンが連続して現れるのに気付く。これらは徐々に、別個の場面が順序だった出来事の流れの様相を呈させて行き、あたかも現代オペラから借用したかのように、ひとつずつがその前の語りに対するアリアによる個別の反応、あるいはコラールによる集合体の反応を積み上げて行くのだ。こうした黙想の中で、歌い手たちは物語の具体的人物描写はせず、出来事の意味を内省的に述べるにとどめ、わざと聴き手の心がドラマの展開に引き込まれて反応し、変化することをしばしば促す。この巧妙に繰り返される聴き手に対する物語への誘導はバッハに冠たる天分の才で、この要素こそが何より作品全体を感動的で力強いものにしている。

1部の終わりで、イエスが捉えられ裁判に引き出される時、バッハは素晴らしくも悲痛な反応を合唱とオーケストラの両方から加え、’Sind Blitze, sind Donner’と歌わせている。ピカンダーの印刷版脚本はここで終わる。その後の説教への音楽による架け橋としてまずバッハはコラール’Jesum laß ich nicht von mir’を素直に和声化したのだが、1730年代中頃に楽譜をコピーして改訂するにあたり、冒頭の合唱との構造的規模のバランスがあまりに不充分であると彼は感じたはずだ。そこで結論したのがもっと精巧なコラール・ファンタジアへの差し替えで、ゼバルト・ハイデンによる受難聖節の賛美歌’O Mensch, bewein dein Sünde groß’への曲付けは数年前にヴァイマールで作曲していたものだ。壮大なコラールのプロローグにふさわしい支柱がこうして場所に収まり、第1部の結論として、それは信者のコミュニティが懺悔によって一体となる理想的な瞑想の機会を与えるもので、受難の物語のルター的意味づけを引き出し、聖書を「実現する」と言ったイエスの最後の言葉への直接の答となるものだ。

説教が終わると音楽が再開され、我々は物語のどの場面にいたかを思い出すのに1-2秒要する。表面的には何も変化は起こっていないようだ。場面は依然ゲッセマネで、今は夜のとばりが降りたあとだ。イエスが手足を縛られ、高僧の前で裁判に引き出されたのは既にしばらく前のことだが、シオンの娘は捕らわれた愛する人を探して、狂ったような様子だ。ここで受難曲はクライマックスに向かって動き出す。我々を状況そのものに引きずり込み(アリオーゾ)、天使が現れて我々自身が状況の対象者だと思い込ませる(アリアとコラール)バッハの作戦はこの上なく潔い。ひとつひとつのアリアに特定の声質と特定のオブリガート音色−ソロバイオリン、フルート、オーボエ(もしくはオーボエ・ダ・カッチャ)、あるいはビオラ・ダ・ガンバなど− をあてがうことで、バッハは伴奏に最もふさわしい判断を下す。それは左あるいは右からの弦合奏全体であったり、繊細な音の組合せであったりする。こうしたアリオーゾとアリアの組合せにおいて、それらが明らかに正反対の趣であるのに対して、共通の指標となるのが選ばれた楽器の音色であり、それが声と語りの諸々とのつなぎ目なのだ。バッハが編み出す万華鏡のような器楽的色彩の組み替えには際限がない。さらにバッハがいかに楽器を「登場人物」(劇場用語のdramatis personae)として、地位を狙ったり、前進あるいは撤退の体勢をしたり、あるいは単に出番待ちであったりの流暢な動きを発展させたかも興味深い。そして他の歌手あるいは演奏者とのダイアローグが始まると、その生き生きとしたダイアローグに焦点固定されて、聴き手である我々は主格としてのそれぞれの人物像に現実味を感じてしまう。それは小説を読むページ上で感じるのとまさに同じことだ。

ヨハネ受難曲ではバッハはコラール・ロンドの’Ruht wohl’で終幕させ、救い主を墓に横たえるおごそかな伴奏は一種の完全な終止符を示唆したが、ここマタイ受難曲のエンディングにはコラール・サラバンドを選択している。それは連続運動のような感覚で、あたかも受難物語のすべての儀式や出来事が聴き手の意識に沈殿し、聖金曜日にはこれからずっと追体験されなければならないかのようである。

振り返ってみよう、マタイ受難曲のエンディングではイエスの人物像がヨハネ受難曲での描写より遙かに人間的で、第2部全体が彼の最後のことば「神よ、神よ、どうして私をお見捨てになったのですか?」と、そしてその前に一度はカイアファに一度はピラトに発した「あなたの言う通りだ」という、僅か3つの碑銘句だけに抜粋されたとしても、その輪郭は力強く、また繊細でもある。それ以外でもマタイ伝の、「しかしイエスは黙っておられた」というくだりにしても、我々が彼の存在を感じない瞬間はただのひとつもない。他者の目や声の中に反映する彼を我々は認識し、それらの多くをまとめるなら「真に、この人は神であった」という感動だ。いつものことながら、音楽はバッハという人物を見出す場所でもある。彼の努めはもっぱら指導者、群衆、福音書の執筆者など、他者に声を付与することだとしても、彼自身の声も物語の中には存在する。我々は彼の熱情や潔白なキリストの苦悩への彼の感情移入、礼節についての彼の感性、語りや説明についての彼の嗜好と並記、そして何にも増して、裁判の場面でのマタイの言葉に割り込んでそれを遮るようにコラールが深い悔恨と激怒を訴えるような、執念深い過剰興奮の潮の流れを止める彼の唐突な手法にそれを聴くことが出来る。

濃密な人間ドラマでこれほどまでに説得力があり根底的に鋭い手法でもたらされた道徳的ジレンマの物語として、バッハのふたつの現存する受難曲と肩を並べうる同時代のオペラ・セリアが1作でもあったろうかと私は思う。バッハがきっかけを得たのはルターからで、迫害されるとはどういうことかを自らの体験で知るルターは、キリストの受難は言葉や見てくれで演じるものではなく、自らの人生の中で演じるよう主張していた。バッハは我々に直接、しかも極めて個人的に問いかけ、我々を引き込む新たな方法を見出した。我々は物語の再演の参加者となり、それを熟知していようが、我々をはっとさせ、我々を自己満足からふるい落とし、その上で自責の念と信仰とそして究極の救済への道という救命策を我々に投じるという計算された流れで物語は語られる。

私自身のアプローチは、アクションと瞑想の往き来は一組の行事を他と組み替えるのではなく、教会もしくは演奏会場という場面での音楽力の展開によって達成できるという確信に基づいており、裸の演奏ステージ(映像用フレームではない)に楽譜から解放された合唱団員とオブリガート演奏者と掛け合うソリストを配し、彼らの指定位置から簡潔且つ威厳ある振り付けであちこち移動させれば、聴衆の想像力が場面全体をどんな背景製作者やステージ監督よりも生き生きとしたイメージで埋め尽くすだろうと信じている。バッハがふたつの受難曲に持ち込もうとしたのは、音楽の中での高い集中力を求めるドラマであり、巨大な想像力であり、共に等しく優れたステージドラマとなるものだ。その真の力はそれらが語らない部分にある。だが我々はそれを無視だ、自らの危険覚悟で。

©2017 John Eliot Gardiner

SDG725 ライナー・ノート「Bach’s Great Passion」より。


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20170403